昭和58年06月01日 月次祭



 信心生活と言う事を一口に申しますけれども、お道の信心による信心生活とは、天地との係り合いを体得さしてもらう、天地との交流がいつも絶えず出来れる生活、いうならば天地のリズムと申しますか、リズムに乗っての生活を私しは真の信心、お道で言う信心生活とはそれだと。長年信心をしております拝んでおりますと言うだけにとどまらず。天地とのいつも係り合いが絶えない。
 いつも天地のリズムが聞こえてくる、どんな場合でも不平をいうてはならん不足をいうてはならん、喜ばねばならん、それが神愛喜ばしてもらわんならんと分っておっても、喜べない事がある。それは天地のリズムを聞いていないから、聴こえてこないから、どんなに苦しい時であろうが、どんなにいわゆるどんな事の場合であっても、そこには天地が奏でて下さるリズムがある。不思議にリズムに乗ると、普通で言うなら腹の立つ事がお礼が言えれる。苦しい事がけれど有難いと言う。
 天地と通う心の状態が、いつも開けて来る。私し共はどれほど神様に、御粗末御無礼と言う事は、お礼を申し上げねばならない事に不平を、不足を思うたり言うたりしておることであろう。信心生活を体得すると言う事はそういうこと。これはもう50年も昔の話ですけれども、今の椛目の松本幸四郎さんのお爺さんにあたるよね、もう亡くなる年に久留米にみえられましたが。そん時にもう70幾つだったでしょうかね。
 花道まで出て来るまでは両方からこう抱えて、揚げ幕の前まで、こんなに腰は曲ってね、これでどうしてちょうどそんときに、連獅子非常に激しい舞です。小平さんというそのとき青年歌舞伎の、小平さんと一緒に連まいをしました。それがね揚げ幕が上がって鳴り物が鳴り始めると。そこでチャート是には私には驚きました。あの長い花道をそれこそもうずうっと出て、舞台で激しい舞を、二舞終わられたんですけれど。もしこれにね、あのうリズムがなかったら、あぁあの不思議な芸は出来なかったであろう。
 ためにはそれこそ激しいまでのやはり稽古をね。積まれた上に積まれてもうそれこそパアーとこう出た時にあの笛が鳴ります。それに体が両方で支えておったお弟子さん達が手を離すと同時にさぁっと。まぁもうはぁもうほんとにそんときゃそのことだけがただ一瞬でしたけど。今日私はそれこそお客さん方が両方からこう身体を支えて、ここへやらせて頂くときに、そのことをずうと思わせて頂いたんですけれど。
 だから結局その厳しいまでのやはり稽古が為されとかなければ、なら普通の人がどんなに素晴らしい金のなるものがなっておっても。シャンともピンともならんでしょうけどね。あれは幸四郎さんにあって、始めてあぁいう鳴り物を聞いたとたんに身体がしゃっとする。いわゆるリズムを聞かれる。リズムが調子が分るのです。これは私し共のまぁおかげを頂きまして、どういう中にあっても、いよいよ難しいごたる時には、神様の方が先立だって手を取らんばっかりに、色々お知らせ下さったり。
 神様とのいわゆるリズムが聞こえてくる、苦しいけれども有難い。そこでねなら一生懸命こうして、今日の日田の綾部さんが裏の方へ挨拶に出てみえられて、親先生、親先生ここへこの御病気になられてから、こちらあちらのご長男が大変具合が悪くて入院されたりしたんですけれど、もうそのう苦しいそういうまぁ中に、ひっとつも慌てんんで済む神様のおかげと思わずにおれない働きを頂き続けて、私しがちゃんとしだしましたら、不思議に神様の前に出たくてお掃除がしたくたたまらん。
 お参りをして下さる方達が、綾部さんいっつもここの神様が綺麗に出来ておりますのは、だからね、もうそばに神様のそばに寄りたくてたまらん。最近大分支部の方達が朝参りを、この冬からずうっと続けておられるですが。結局誰かれじゃなかった、支部長である自分がしゃんとすりゃ皆さんもしゃんとできるという事を、もうほんとに体験さしていただいとると言うて、今日言っておられましたがね。神様の前に近づきたい、どうかしとっておられん、触りたくてたまらん。
 そういう神様へ向ける憧念心、その神様の御心が分りたいとここでは、一切信愛が説かれ、合楽理念が説かれるのです。合楽理念は神様と仲良うする信心、神様を怖がるように神様がしらじらしいものに、神様がもうひたひたといつも自分の心の中に通うて下さる、そういう稽古をね、ひとつ本気でなさらな、たらならね、今言う幸四郎さんじゃないけれども、一朝一夕で出来るとは思いませんけれども。
 若い時から積み重ねた言うならば、芸道に精進される時に、もう体は自由がきかんというごとなると、手もいざ体に出る、いざ鳴り物がなって来ると、もう身体が心身ともにパーとリズムに乗ってやはり、舞が舞える様に、私しは自分の今度の体験からそれを思わせて頂きました。どうぞ一つ信心生活お道で言う信心生活とは、天地金乃神様の御心を心とする、とてもそんなことなんか私、昔から長年の信心、神様の心を心とするなんて言う様な事は、実際出来るもんじゃないと思うとったけれども。
 それこそ神と仲良うする信心、なにかを機会をのがさずね、強い球が来れば強い球が来るほど、それをいわゆるホームランの、強い打ち返しが出来るのも強い球でなからなければ出来ません。こちらから投げる球でも、相手があってもそろっと投げたんじゃそろっと帰って来る、力いっぱい投げるから、元の自分の所に帰って来る様に、神様に向かうのもね、そういう神様の心を心とする生き方を身に着ける事。
 それはならどう言う事かというと、天の心とは地の心とはと、まぁここではくどい様に説きます、その天の心を自分の心に頂く、地の心をいよいよ自分のものに体得して、本当に黙って修めると言う事の、本当に今まで不平不足をいうて来ておった事も、相済まない事に気付かして貰うて、いよいよお礼の信心、神様と交流し続事の出来れる選手か、真の信心しか真の信心のおかげを頂く為にも、焦点をここにおいての信心。
 これはもう繰り返し繰り返、し言うてもおんなじ事ですけども、身に着けて行くものは違います。日に日に新らです。新たな発見、新たな神様との交流ぞというものを感じます。あぁあなるほど一生が修行ぞと、教祖様が仰ったが、確かに一生は修行です。限りがないです、今迄知っておったことだけではない、はぁ新たな発見、日に日に生きるが信心だよと仰られます、その日に日に生きて、神様との交流度を高めて行く、喜びの生活を私しは信心生活、御縁があって御参りをして。
 何かの時にはお取次ぎを頂いて、おかげを頂く一生から、あの世までも持って行けれる信心生活を、私共はこの世におる時に、真の信心生活を身に着けて、体得です矢張り、例えば鳴り物のリズム調子が分ると言う事は、やはりみんな肥えなきゃ出来ません様に、心が肥えて参りますと、もう微妙な今迄全然気づかなかった所にまで、そのリズムを聞くことが出来、はぁ普通だったら是を、普通の人だったら不平不足を言う事だろう思う中に、心からお礼の言えれる生活、信心生活をいよいよ身に着けていきたいと思います。
  どうぞ。